今朝の読売新聞、「思潮」より。

 ヨミダス文書館にも、YOMIURI ONLINEにもないので、OCR使ってテキストおこし。酔っぱらっていてちゃんと評価できないので、気になったところだけ見てみましょう。ごめんなさい。

 むろん外科医の激務は昔から変わらないが、十数年前までは患者からの謝礼があったから、謝礼も収入のうちとすることで「激務に耐えていた面」があった。しかし謝礼は廃止され、一方では一部の無責任な医師のふるまいもあって社会の目も冷たくなってしまった。「社会的な尊敬も受けず、長時間労働でろくに家族の顔も見られない生活」で、どうやってノーブレス・オブリージュを果たせるか、と氏は言う。かくて多くの勤務医は都市部の開業医などに転じていくことになる。

 ここ、気になったところ。
 外科系の先生方におうかがいしたい。謝礼を励みに、激務に向かっていくなんてことあるんでしょうか。謝礼のあるなしでやる気が変わるんでしょうか。特に“十数年前”から働いている先生方におききしたい質問です。
 全く無いとはいいません。ただ、謝礼がないと動かないような書き方はやめてほしい。あと、このコラムでも触れているけども、その山崎なんとかといい、今回の筆者といい、なんでワケわからん外来語を使いたがるの。なに、ノーブレス・オブリージュって。パッと聞いて意味のわからん言葉なぞ使うな。
追記1)と思っていたら、はてなキーワードに「ノーブレス・オブリージュ」、ひっかかってるね。勉強不足でごめんなさい。
(2007年5月30日 22:39追記)
追記2)ヨミダス文書館にのっていました。掲載から1日たてば検索できるのね。でもせっかちだからテキストおこししてしまいました。またちょっと悔しい。
(2007年5月31日 6:18追記)
 以下は記事。

「先生」たたきの悪循環
2007思潮 5月
逃げ出す医師 倒れる教師
 教師や医師など、「先生」と呼ばれる人々の権威失墜が近年はなはだしい。その背景には、もちろん学級崩壊や医療過誤などの闇題がある。慢心した彼らが自らの責任を全うしていないために様々な問題が起きている、というのが、一般的なバッシングの論理だろう。だが、その責任は本当に「彼ら」にあるのか。事あるごとに教師たちがたたかれる風潮については、本紙でも劇作家・中教審会長の山崎正和氏が今月20日「地球を読む」で批判的に触れているが、同様の議論は今月の各誌でも目立った。それらには通底していた視点がある。かつて「聖職者」は社会から尊敬され、それゆえにノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の責務)に身をささげていた。仮にいま、彼らが自らの責務を忘れているとしても、それは社会の側の敬意が失われたことと裏腹ではないのか、というのである。
 作家で医師の久坂部羊氏は、「そして医師はいなくなった」(『中央公論』)で勤務医を取り巻く窮状を報告している。氏によると、いま地方の病院では、勤務医が大量に退職して病院が機能しなくなる「医療崩壊」が進んでいる。外科を例にとれば、その背景には、まず外科勤務医の週平均の勤務時間が68.8時間に及ぶという激務がある。さらに医療訴訟のリスクは高く、激務に比して収入は決して高くない。10年後には外科医志望者がゼロになる可能性さえあるという。
 むろん外科医の激務は昔から変わらないが、十数年前までは患者からの謝礼があったから、謝礼も収入のうちとすることで「激務に耐えていた面」があった。しかし謝礼は廃止され、一方では一部の無責任な医師のふるまいもあって社会の目も冷たくなってしまった。「社会的な尊敬も受けず、長時間労働でろくに家族の顔も見られない生活」で、どうやってノーブレス・オブリージュを果たせるか、と氏は言う。かくて多くの勤務医は都市部の開業医などに転じていくことになる。
 藤枝市立総合病院副院長である毛利博氏の「自治体病院の現場からみた地域医療の破綻の姿」(『中央公論』)によれば、多くの勤務医の年収は当直・時間外を含めて1000万〜2000万円に及ぶが、研修医は400万円程度。勤務医の90%以上は当直勤務をはさんだ32時間労働を月2、3回行っている。医療ミスを犯すことへの不安なども踏まえれば、年収だけをとらえて勤務医を批判できるのか、議論のあるところだろう。
 学校教師もまた、決して安閑としているわけではない。三楽病院精神神経科部長の中島一憲氏は、「倒れる教師たち」(『世界』)で、2004年に東京都区部の中学校を対象にした調査を示している。それによれば「専門科を受診しても無理はない程度」のうつ症状を示した教員は全体の36%にも達した。その背景を、中島氏はこう分析する。
 教師たちは、地域の教育力が衰弱する中で、学習以前の「生活指導に多大な時間と労力を費やさざるを得ない」が、加えて保護者からは「一方的かつ多様な要望」が寄せられる。かくて「職務遂行に真剣に取り組む真面目な教師ほど」疲弊してしまう。
 官僚もまた、近年しばしばバッシングの対象となってきた。天下り防止のため、再就職あっせんを一括して行う「官民人材交流センター」(新・人材バンク)が来年設置されることが決まるなど、新たな動きもあるが、評論家の山形浩生氏は「いじめるだけでは官僚は逃げる」(『Voice』)で、述べている。
 「ゴミゴミした古い執務室の狭い机に資料を山ほど積んで、安い給料なのに残業まみれで彼らは働いている」のであり、本当に必要なのは「天下りがなくても、のちのちよい生活が保証され、能力のある人がやる気を発揮してくれるような環境」を作ることではないかー。
 「既得権益」に守られた人々を引きずり下ろす、というのは確かに小泉改革の一つのテーマであり、多くの国民も快哉を叫んだ。だが、ノーブレス・オブリージュまでも否定するような風潮は相互不信の悪循環を招くばかりではないか。この現状には、思想家のオルテガが主著『大衆の反逆』で論じた大衆社会の病理を患い起こさせるものがある。いま我々が心すべきは、真剣に仕事に取り組む「先生」を真っ当に評価することなのかもしれない。
(時田英之)